僕の生まれたタイミングについて思ったこと

 単純に僕の行動力の無さに起因する問題なんだけど、僕が会ってみたい偉大な頭脳たちは大抵高齢なので、僕が会って話をできる能力と機会を獲得するまでには、恐らく亡くなってしまうであろうということが悲しい。
 しかし、同時に、偉大な頭脳に成り得る素晴らしい頭脳たちも大勢いる。僕よりも少し年上の世代にもいるし、同世代にもいる。特に期待している世代は僕よりも下の世代の人たち。これはとても嬉しい。
 僕たちの世代は、ちょうどコンピュータとインターネットが社会に大きな影響を与えるようになった頃、コンピュータに触れ始め、思春期を過ごした。だけど、僕たちよりも一回り下の世代の人たちが生まれた頃、これらの存在は既に社会システムの一部分として不可欠な技術として定着しつつあった。要するに、僕たちは所謂 IT 革命の変化に何らかの刺激を受けながら育った世代であり、彼らはコンピュータの有無に関する大きな変化による刺激を受けずに育った世代だということ。
 バックグラウンドが違うことによる発想の差異の例は枚挙に暇がないけれど、コンピュータに関する時代の変化による差異は、これまでのジェネレーションギャップ以上に面白いギャップを生みそうな気がしている。上の世代とのギャップ、同世代との共通認識・トレンド、下の世代とのギャップ。どの要素を選んで比較しても楽しいんじゃないかな。
 このエントリの内容はありふれた考察ではあったけど、このことについて自分で書いてみるという経験が今までなかったので、なかなかに楽しかった。次に考えるべき問題として思いつくのは、冒頭でも述べた「僕の行動力の無さ」の改善だろうな。僕が死ぬまでに、僕よりも下の世代の、偉大な存在へと成長した頭脳たちに会って会話をするだけの能力を身につける必要があるわけだ。大変だな。


 このエントリでは、パラグラフの第 1 文の行頭にスペースを入れるという、日本語の文章としては極めて基本的な作法を適用してみた。はてダ側でやってくれればいいのにね。